袴田さん 無罪確定へ
検察控訴せず 捏造認定は「強い不満」
朝日新聞 2024(令和6)年10月9日(1面)
1966年に静岡県のみそ製造会社の専務一家を殺害したとして強盗殺人罪などで死刑が確定した袴田巌(いわお)さん(88)に対し、再審(やり直し裁判)で無罪を言い渡した9月26日の静岡地裁の判決について、最高裁は8日、控訴しないと発表した。検察トップの検事総長談話も出し、証拠捏造を認めた判決に「強い不満」を表明しつつ、袴田さんの再審手続きが長引き法的に不安定な状況に置かれたことなどを「申し訳なく思う」と謝罪した。
2面=検察「妥協」
12面=社説
26面=本誌報道検証
27面=無罪 たどり着いた
逮捕58年 長期化考慮
朝日新聞 2024(令和6)年10月9日(1面)
控訴期限は10日だが、検察は控訴する権利(上訴権)を放棄するという。袴田さんが死刑囚の立場から法的に解放され、逮捕から58年を経て無罪が確定する。
確定死刑囚の再審無罪は戦後5件目。過去の4件はいずれも検察が控訴せず無罪が確定した。
静岡地裁の再審判決は、袴田さんの逮捕後に現場近くで発見された中心的な証拠「5点の衣類」について、「捜査機関が血痕を付けるなどの加工をして隠した」と指摘。衣類のうちズボンから切り取られたとされる端切れや、検察官が作成した自白調書と合わせ、三つの証拠を捜査機関による「捏造」と認めた。
畝本直美・検事総長はこの日、異例の談話を発表。再審判決について「多くの問題を含む承服できないもの」と批判し、捏造を認めた判断に証拠や根拠が示されていないとして「強い不満を抱かざるを得ず、控訴すべき内容だ」と述べた。
しかし、無実を訴え続けてきた袴田さんについて「長期にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも思いを致した」と説明。「検察が控訴し、その状況が継続することは相当でない」と判断した。
袴田さんの第2次再審請求は、2014年に静岡地裁が再審開始を決定したが、東京高裁による取り消し、最高裁の審理差し戻しを経て、23年に東京高裁で確定した。総長は談話で、再審請求審の長期化などについて「最高裁として検証を行いたい」とも述べた。
みそ製造会社の従業員で元プロボクサーだった袴田さんは、1966年に強盗殺人罪などで逮捕・起訴され、公判で否認したが、80年に死刑判決が確定した。43年後の2023年10月に始まった再審公判でも、検察は改めて袴田さんが犯人だと主張し、死刑を求刑していた。
(金子和史)
当時の報道、おわびします
ゼネラルエディター兼東京本社編集局長 春日芳晃
袴田さんが逮捕された1966年当時、朝日新聞は犯人視して報道していました。逮捕当初は「葬儀にも参列 顔色も変えず」といった見出しで伝え、「自白」した際には「検察側の追及をふてぶてしい態度ではねつけてきていたが、ついに自供した」とも書いています。明らかに人権感覚を欠いていました。こうした報道が袴田さんやご家族を苦しめたことは慚愧に堪えません。袴田さん、ご家族、関係者のみなさまに心からおわびいたします。
事件報道は世の中の関心に応え、より安全な社会を作っていくために必要だと考えています。ただ、発生や逮捕の時点では情報が少なく、捜査当局の情報に偏りがちです。これまでにも捜査側の情報に依存して事実関係を誤り、
人権を傷つけた苦い経験があります。
こうした反省に立ち、朝日新聞は80年代から事件報道の見直しを進めてきました。推定無罪の原則を念頭に、捜査当局の情報を断定的に報じない▷否認している場合は目立つよう伝えるなどと社内指針で取り決めています。
科学捜査が大きく進歩したとはいえ、供述頼みや見込み捜査による冤罪は今もありますし、今後も起こり得ます。捜査や司法をチェックする視点を忘れず、取材、報道を続けてまいります。
検察「妥協」の控訴断念
再審判決に「疑念」「承服できない」
異例の総長談話 地裁批判
朝日新聞 2024(令和6)年10月9日(2面)
袴田さん(88)が、死刑囚の立場から半世紀ぶりに解放される。無罪とした静岡地裁の再審判決に対し、検察当局は「強い不満」を表明しつつ、控訴しないと発表した。数々の問題が指摘された捜査や裁判は、どこまで検証されるのか。
(植松敬)
問われる「捏造捜査」
事件発生から約58年。すでに関係者の多くが亡くなっているが、捜査当局の証拠の捏造まで認めた判決が確定することで、捜査の検証を求める声が高まるのは必至だ。
特に重大な疑問が、裁判の最も重要な証拠にもかかわらず、再審判決が捏造と判断した「5点の衣類」だ。袴田さんの逮捕から約1年もたってから、現場近くのみそタンクで見つかった。それまでの公判で、検察側は犯行時の着衣を「パジャマ」だと主張していたのに、「5点の衣類だった」と一転させた。
再審判決は、衣類に残った血痕の色に関する鑑定結果などをもとに「1年もみそ漬けされた色ではない」と判断。公判で否認に転じた袴田さんの無罪を許容できない捜査当局が、衣類の入手や加工などの捏造に及んだと判断した。
事件発生直後にタンク内を捜査した元捜査員は「タンクには絶対何もなかった」と朝日新聞の取材に語った。検証を進めれば、捜査に関する証言や資料がさらに得られる可能性もゼロではない。
袴田さんの実家への捜査で見つかったとされる「端切れ」も、捏造とされた。5点の衣類中のズボンと同じ生地とされ、袴田さんと衣類を結び付ける証拠ったが、再審判決は「捜査機関が持ち込んだと推認できる」とした。
8日の畝本検事総長名の談話は「再審請求手続きが長期に及んだことなどにつき、所要の検証を行いたい」と述べたが、捜査への検証がどこまで進められるかは不透明だ。
検察や警察が過去の再審事件の捜査などを検証した例はある。1980年代に確定死刑囚が再審無罪となった3件について、最高検は捜査の問題点を検証し、非公表の報告書にまとめた。2000年代以降は、精度の低いDNA型鑑定を過信して元被告にうその自白をさせた「足利事件」などの検証結果を公表した。
今年6月には超党派の議員連盟が法相に、「大臣のリーダーシップで過去の再審無罪事件について第三者を交えて検証する」ことを求めている。
捜査機関による捏造は事実なのか。事実であれば、だれが判断し、どう実行したのか。検察内には「捏造」との認定に反発の声もあるが、控訴を断念した以上、捜査の是非が問われることになる。
(金子和史)
社説 朝日新聞2024・10・9
誤った判決によって、袴田さんは半世紀近く自由を奪われ、死刑執行を恐れて心を病んだ。この上ない人権侵害を起こした関係機関が今後、果たすべき責務は重い。
検証と真摯な謝罪を
再審判決が認めたのは、袴田さんの無罪だけではない。警察、検察が連携した非人道的な取り調べで虚偽の自白をとり、有罪の中心的証拠とされた衣類5点も捜査機関の捏造だったなど、見過ごせない指摘をしている。
この点について、検事総長談話は不満をあらわにしているが、再審開始を決定した二つの裁判体も同様の指摘をしたことを忘れたのだろうか。捜査、公判、再審手続きで何が起きたのか。警察・検察当局は、関係者や当時の記録をたどって検証を尽くさねばならない。袴田さんへの真摯な謝罪がない限り、失われた信頼は戻らないだろう。
裁判所にも検証の責任がある。地裁から最高裁まで死刑判決を重ね、最初の再審請求は43年前だったのに、第2次再審請求審で検察側の証拠開示が進展をみるまで、手続きは遅々として進まなかった。
袴田さんより前の4件の死刑事件の再審無罪は1980年代に集中していたが、この15年でも、足利、布川、東電社員事件など無期刑の再審無罪が続いた。冤罪被害は決して過去のことではない。
事件当時、袴田さんを犯人視する報道が広がった。報道機関として反省し、今後に生かさなければならない。
手の届く再審制度へ
誤判をなくすことがまず求められるが、人間が担う裁判に完璧はない。再審はその非常救済手続きだ。しかし、再審の可否を決める再審請求審の進行が見通せない上、再審開始決定が出ても検察官の上訴でさらに年月がたつうちに、関係者が高齢になって実質的な救済をなしていない。袴田さん以外の再審請求にも言えることだ。
最大の原因は、刑事訴訟法に再審手続きについての規定がほとんどなく、進行が担当裁判官しだいとなりがちな点だ。この機会を逃さず、再審法制の不備を改めるべきだ。
カギを握るのは証拠開示だ。再審で無罪につながった証拠は、第2次再審請求審で裁判所が勧告し、検察側がようやく出すまで、捜査側の手元にあったものだ。
証拠開示は通常審ではルール化されており、再審手続きでも捜査機関がもつ証拠の一覧を示し、再審を求める側がアクセスできるようにする必要がある。
再審が「開かずの扉」と呼ばれて久しい。再請求を受け持つ裁判体が一つでも「無罪を言い渡すべき明らかな新証拠」を認め、開始決定するのはよほどの状況だ。
検察官上訴を認め、再審を開くかどうかさらに争うより、ただちに再審を開き、その中で検察側、弁護側の双方が主張を尽くす形に改めることも検討に値する。
再審制度の見直しは、取り調べの録音録画などを導入した19年施行の改正刑訴法に関する法務省の有識者会議が検討しているが、抜本改正を促す方向性にはなっていない。今回の事件を含む実例をもとに、必要な改正点を洗い出すことが急務だ。
再審請求審を経験した現役裁判官を対象とした本紙の調査では、回答した18人中15人が現行制度は「不十分」だとし、「手続きの不備が無辜(むこ)の救済を困難にしている」などと述べていた。
今春には、再審法制の改正に向けた超党派の議員連盟も発足した。率先して議論を進めるのが国会の責務である。
取り返しのつかぬ刑
もし刑が執行されていたら、無罪判決を受け止める袴田さんの姿はなかった。死刑制度には、国家が個人の生命を奪うことへの根源的な疑問をはじめとするさまざまな問題がある。誤った死刑判決があるという一点だけでも、立ち止まって廃止を考える時期にきている。
姉秀子さんや兄が拘置所を訪ねるたび、自らの潔白を懸命に訴えていた袴田さんの心に変調が見えたのは、最高裁での死刑確定後だった。いつとも知れぬ刑の執行におびえ、妄想の世界に入り込み、何年間もだれとの面会も拒んでいたこともある。
秀子さんや弁護団が再審手続きを進めていたが、自分で冤罪をそそぐ力も意欲も失わせかねない点に、この刑の非人道性がある。
9月現在、死刑確定者は108人。中には袴田さんのように確定から数十年間、拘置所にいる人もいる。どんな刑を宣告された人であれ、その尊厳は守られねばならない。
袴田さんに強いられた不条理を、刑事司法が抱えるさまざまな問題を解決する、きっかけとしなければならない。
袴田さん 無罪確定
再審判決 地検が上訴権放棄
朝日新聞 2024(令和6)年10月9日
強盗殺人罪などで死刑が確定した袴田巌さん(88)を無罪とした静岡地裁の再審判決が9日、確定した。
静岡地検がこの日、控訴する権利(上訴権)を放棄し、発表した。
検察トップの畝本直美・検事総長は8日に公表した異例の談話で、「強い不満」としつつ、控訴断念を表明。「袴田さんが長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてしまうこととなり申し訳なく思っております」と謝罪していた。
(金子和史、本間久志)

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