共生社会と
インクルーシブ教育を考える
2024.4.1/2024.10.11/2026.1.24

共生社会が実現すれば、おのずとインクルーシブ教育は実現します
共生社会もインクルーシブ教育も、いずれも障害(者)への理解がなければならないと思います
それはいわゆる〝合理的配慮〟の問題を考えることにも通ずることだと思います
「障害者の権利宣言」の再確認と
合理的配慮
「共生社会」も「インクルーシブ教育」も、いずれもその前提にはいわゆる障害(者)への理解がなければならないと思います。その意味では国連の総会で1971年に採択された「知的障害者の権利宣言」と、その4年後に採択された「障害者の権利宣言」を改めて再確認するということが大切ではないかと考えます。
知的障害者の権利宣言では、「知的障害者は、実際上可能な限りにおいて、他の人間と同等の権利を有する」という点が重要です。
実際上可能な限りにおいてというのは、可能であるのが本来であるが、実際的には可能でない場合もあり得ることを肯定するところに宣言の意味があるわけです。
障害者の権利宣言では、『「障害者」という言葉は、先天的か否かにかかわらず、身体的又は精神的能力の不全のために、通常の個人又は社会生活に必要なことを確保することが自分自身では完全に又は部分的にできない人のことを意味する』という点が重要です。
障害者の権利宣言には、知的障害者の権利宣言の補足的な意味合いがあり、知的障害だけでなく、先天的か否かにかかわらず、生活に必要なことが自分自身で確保することが困難な状態を包括的にとらえたすべての障害者の権利の宣言であるというところに意味があるわけです。
この二つの宣言は、障害を否定せずに、障害をもつ人の存在を当たり前に認め、可能な限りというのは、どうすれば可能か、もし可能でなければ、その可能でない状態にどう対処するかを実際の生活のなかで具体的に追求するよう促すところにあるわけで、追求しながらも、不可能ならば不可能なりの、できなければできないなりの人としての生き方や生きがいがあり、それも同じ人の生き方として当然尊重されるべきものという考えに立脚した宣言だと思います。
尊重されるということは、尊重するという配慮を伴うものでなければなりませんが、そもそも人々が共に生活するには互いの配慮を要するわけで、それが障害者の権利条約でいう「合理的配慮」ということだと思います。
換言すれば、障害者の権利といっても、それは特別な権利ではなく、人の権利にほかならないという考えに基づく配慮が「合理的配慮」であるという理解が大切です。また合理的配慮の「合理的とは」という問題を考える上で重要なのが、世界保健機関(WHO)が2001年に採択した「国際生活機能分類(ICF)」の考え方です。
ICFは、障害をもつ人ももたない人も同じ「生活者」であり、その生活は環境的諸条件とも関係性のあることを踏まえたもので、世界共通の理解認識を促す意味で画期的であり、障害(者)をどう理解するかの指針となる最新のものといえます。
障害(者)観を変えた国際障害分類と国際障害者年
国際障害分類試案/国際障害者年/国際生活機能分類
教育を受ける権利の保障と
インクルーシブ教育
教育を受ける権利の保障ということでは、障害児教育が義務制になった意義は大きいと思います。しかし義務教育を修了すればそれでよいということではないわけですから、何のため、誰のための義務教育かという点と義務教育としてどのようなことを、どのように行うかが重要です。それは義務教育終了後をどのように見据えるかということでもあると思います。
教育とは、いうまでもなく教育を受ける側に対する配慮を要するわけですが、それがともすると、本人のためにと言いながら親の意向あるいは教育を施す側の一方的な価値観や評価にとらわれたものになりがちではないでしょうか。その結果として、素晴らしい理念や言葉を並べてはいるが、根本的な解決には至らぬまま、教育を受ける側は不本意ながらもそれに甘んじてきたというような経緯があると思います。
人の一生では、学齢期よりも学校卒業後のほうがずっと長く、学校卒業後をどのように暮らすか(暮らせるか)という問題があるわけですから、人の一生をどのように考えるかという視点が大切です。
特別支援教育の制度は、特別な支援を必要としている状態や程度に配慮した適切な教育の内容や方法、教育の場などの工夫や設定ができるような制度でなければなりませんし、学校だけが教育の場ではないという柔軟な認識に基づくものでなければなりません。現行の教育法制度の抜本的見直しも必要だと思います。
障害のある子もない子も分け隔てなく「学ぶ権利」を同等に保障するための教育環境の整備とは、単に障害のある子とない子を一緒にすればよいということではないにもかかわらず、みんな一緒に同じことを同じようにしなければならない(すべきだ)というように誤解した混乱を招いているように思います。
障害をもつということは、一般的な価値観や評価、人間関係などが通用しにくい問題を抱える状態であるわけで、障害のある人とない人が互いに理解し合うことができなければそこに無理が生じ、その関係はむずかしくなり、その無理の度合いがさらに障害の内容やその程度や状態を助長するようなことにもなりかねません。
したがって障害の多様性を理解しないまま〝障害〟と一括りにして、無差別平等論を掲げ、一般的な価値観や人間関係の基準に当てはめようようとする自立支援や就労支援、生活支援、教育支援では無理は解消しないわけです。知的障害や発達障害の場合、その状態や程度にもよりますが、そうした無理を抱えたままの状況が続いてきたといってよいかもしれません。
障害があるから無理だというよりも、無理があるからそれが障害だという考え方や視点が大切です。障害の特質をすべて承知した上で、どのように共に生きるか(生きられるか)を具体的に考えるということでなければ、共に生きるという支援にはならないであろうし、障害(者)問題の根本的な解決にはならないと思います。
共生社会が実現すれば、インクルーシブ教育はおのずと実現します。日本の現状において、「共生社会」や「インクルーシブ教育」を考える上で、障害者権利条約でいうところの「合理的配慮」の考え方はとても重要だと思います。
日本の教育制と特別支援教育について《提言》
朝日新聞社説:2026・1・21
障害者除く統計 反省深め共生の契機に
小幅な修正だからと、見過ごすことはできない。
学校基本調査に載る大学進学率など12種類の統計が、障害のある児童や生徒が通う特別支援学校(特支)の卒業者数などを除いて、算出されていた。国の統計で存在しないことにされた児童・生徒は、一般の学校と同じ学校教育法のもと設置される学校に通い、学んだ子どもたちだ。文部科学省の対応は、障害の有無で分け隔てられることのない「共生社会」の実現をめざす、障害者基本法や障害者差別解消法の趣旨にもとる。
文科省は最大で77年度分の統計を特支を含む形で修正し、「おおよその傾向や経年変化が変わるものではない」と説明した。ほかにも公立学校施設の老朽化状況調査や学校保健統計調査など、15の調査で見直しが必要な取り扱いがあった。松本洋平文科相は、長年にわたり問題点の認識に至らず、漫然と放置していたことを謝罪した。
このような差別的な対応がなぜ、長年放置されたのか。
歴代担当職員への聞き取りも踏まえ、文科省は「統計の継続性を過度に重視する考え」や「前例踏襲の意識」を原因に挙げた。大臣も「差別意識があったことは確認できなかった」と釈明した。
しかし、不適切な対応を問題視する声が省内からほとんど出なかったことこそ、教育行政に潜む障害者と健常者を分け隔てる意識の表れだろう。政策立案の基礎となる調査からの除外は、障害児の成長と自立を支える特支の存在意義をも軽んじるものだ。
高市首相は国会で「誠に申し訳なく思う」と陳謝し、「共生社会の実現は非常に重要だと考える」と答弁した。言葉だけで終わらせてはならない。政府として深く反省を求める。障害児の学びの場、卒業後の働く場や居場所の拡充を進める契機にすべきだ。
成長の速度が緩やかな障害児は、特支高等部まででは、自立に必要な学びを十分に得ることが難しいことが多い。卒業後も学びの機会を提供する専攻科もあるが、数は少なく認知度は低い。障害児は進学しない、といった固定観念を改め、進路を広げて自立を支えることが大切だ。社会全体で意識を変えていきたい。
特支高等部を卒業すると、年齢制限で放課後等デイサービスを利用できなくなり、仕事との両立をあきらめる親は少なくない。就学時より支援が手薄になる。「18歳の壁」に直面するからだ。障害者と家族の生活の質の向上をめざす、18歳の壁対策法案が昨年末に議員立法で国会に提出された。議論の進展を望む。
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日本の障害児(者)の教育や福祉をめぐる
問題、課題を考察し、今後を展望
田研出版 3190円 A5判 316頁
ⓒ2012 日本の教育と福祉を考える