
ノーマライゼーションと
障害児者の教育と福祉を考える
2013.2.24/更新 2014.1.10/2018.9.14/2023.3.21/2024.12.7/2025.2.24(表題変更)/2025.3.9
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1981(昭和56)年の国際障害者年と、その前年に世界保健機関(WHO)が、障害に関する世界共通の理解を促し、科学的アプローチを可能にすることを目的に作成した国際障害分類試案(ICIDH)を発表したことが契機となって、障害(者)観は大きく変化することになり、ノーマライゼーションの理念が広まります。
ノーマライゼーションの理念は、日本の障害児者の教育と福祉の分野にも大きな影響をもたらしました。
戦後を経て、日本の人々の障害(者)に対する理解・認識も随分と深まり現在に至っていると思います。しかし、これまでを振り返ってみたとき、果たしてノーマライゼーションの理念は日本にとって確かなものとして広まってきたといえるでしょうか。また「障害」といっても、その内容や程度や状態は多様なわけです。そうした障害の実際を直視し、丁寧に理解を深める確かな努力をしてきたといえるでしょうか。
障害者のためといいながら、「障害」と一括りにしたステレオタイプの思考から抜け出せないまま、実際とは遊離した自己満足的な言葉だけは立派な、曖昧な論議を繰り返してきたようなところはなかったでしょうか。そうしたことを改めて考えてみることは、戦後80年の今、日本流の確かな理念を確立するためにも必要なことであり、大切なことであると思います。
日本の障害児者の教育と福祉
特別支援教育について
障害者福祉の施策について
「完全参加と平等」について
“新たな施設観”の構築
地域生活支援と「施設」の意義
“新たな施設観” の確立について
日本の障害児・者施設の原点
日本の障害児者の教育と福祉
特別支援教育について
日本の教育制度は、 原則として障害の有無で教育を受ける場としての学校を分けてきましたが、2007(平成19)年4月より、これまでの盲学校・聾学校・養護学校(知的障害・肢体不自由・病弱)の障害種別の学校区分をなくして発達障害に対する教育的支援も含めた「特別支援学校」とする特別支援教育の制度がスタートしました。
ノーマライゼーション理念の目指すところの「共に学ぶ」「共に生きる」というのはよいのですが、そこに混乱が生じやすいようです。また障害児を対象にした専門的な教育の取り組みは差別であり隔離であるとして否定し、すべての子どもを普通の学校又は普通の学級へと主張する運動に結びついてきた経緯もあります。
障害があっても、障害のない子どもと同等に教育を受けることができる適切な教育的環境条件を整えることこそがノーマライゼーションの理念です。ところが同等にということを単に同じ教育内容や同じ教育方法、同じ教育の場というように解釈し、それにこだわるところに混乱が生じる要因があると思います。
障害児の教育の場をいわゆる普通の学校や普通の学級に統合して教育を行うインテグレーション(統合教育)という考え方から、さらに発展した考え方がインクルージョン(障害の有無にとらわれず、すべての児童を地域の通常の学校教育の場に包み込んで必要な教育を行う)です。
しかしそれは単に障害のある子どもとない子どもを一緒にすればよいということではないのです。まして個人差(個別性)を無視するものではないはずです。
障害の内容やその程度や状態に対する配慮を欠くならば、教育の意義や教育の効果を失うことになります。その点で障害に応じた適切な配慮を要するわけで、そのための専門的な教育の取り組みを否定するものであってはならないと思います。
障害児教育は、その障害のことを理解し、その障害があるがための特別なニーズに可能な限り応えることを「普通」に行うことなのです。
障害者福祉の施策について
1960(昭和35)年代以降、ノーマライゼーション理念の広がりに伴い、福祉先進国といわれる国々では施設の縮小や解体へと向かいますが、日本はむしろそれとは逆に、施設中心の施策に向けた勢いが増し、施設の整備充実を図ることできたわけです。しかしそれは日本の実情に応える施策でした。
今、ノーマライゼーションは世界各国の障害者福祉のあり方と社会変革を促す基本理念となっていますが、ノーマライゼーション理念のもともとの趣旨は、知的障害の子をもつ「親の会」が提唱した非人間的な入所施設の改革を意味します。その考え方の発展が障害者施設の縮小や施設から地域への移行を促す「脱施設」の政策となって広がったわけです。
ノーマライゼーションの理念は世界的に大きな影響を及ぼし現在に至っています。日本の場合は、施設の整備を推進する一方で、施設整備を進める上で反省すべき点について考える機会を得たことにもなります。
日本の障害児(者)の教育と福祉の現状を考えたとき、これまで築いてきた施設の取り組みを無駄にするのではなく、施設施策に関する反省点を踏まえ、むしろ施設の整備充実を図ることが有効な施策となりうると思います。
「完全参加と平等」について
「完全参加と平等」とは、1981(昭和56)年の「国際障害者年」が掲げた障害をもつ人の社会参加を促すスローガンです。スローガンの具現化の前提として、完全参加とは・・・・、平等とは・・・・、ということをどのように考えるかが大切だと思います。
社会参加とは、ある一定のレベルとか条件があり、それを満たさなければならないというようなことではないはずです。何よりもまずその人なりの “生活の拠りどころ”
となる “生活の場” の有無が問題であり、その生活の場におけるその人なりの 〝主体性〟〝自律性〟 の有無が問題だと思います。
その人なりの主体性や自律性を発揮した生きがいや生き方を実現できるような活動(生活)の場があること、それが社会参加だと思います。そのために大切なことは、障害児(者)を人々がどのように認め、どのように受け入れることができるかどうかだと思います。
平等とは、単に一律または画一的であることとはちがいます。人はみな人間であることでは同じでも個人差があるわけですから、その個人差を無視し、個人差への配慮を欠いたのでは平等とはいえません。
一人ひとりを大切にという一方で、 完全参加と称して、 結果的に無理を強いるようなことや、 平等と称して一律的、画一的なことが善意からであるにしろまかり通っているのではないでしょうか。
“新たな施設観”の構築
地域生活支援と「施設」の意義
障害のある人もない人も、人として生きる権利は同等です。したがって障害のある人が堂々と生活できるような施策を講じるのは社会的義務です。それは必然的にそのための社会環境を整備することであり、人々の理解が得られるものでなければなりません。
脱施設化政策により、障害のある人が地域社会の中で問題なく生活できればよいと思います。しかし脱施設後の生活を保障する基盤整備は不十分のままの現状があります。
障害の内容を改善し軽減することはできても、障害の程度や状態には大きな差があり多様です。しかもその差とはやがて追いつくとか治るというものではなく、質的な差異と考えたほうがよさそうです。
知的発達に障害のある場合、その障害特質としての主体性(自律性)の弱さや生活に必要な情報を得たり、生活に必要な技術を習得するのが苦手なことなどが問題となります。
そのため日常生活や社会生活に困難が生じるとすれば、長期的・継続的な支援を必要とします。そうした支援を考えたとき、そこに「施設」の意義と必要性を考えることができます。
“新たな施設観” の確立について
施設中心の障害者福祉から地域生活を支援する福祉施策を重視する方向への転換はよいと思います。しかし、それがこれまでの「施設」の意義や必要性を否定するものならば、結果的には地域福祉を充実させる社会資源を否定することだと思います。
施設の在り方で重要なことは、施設が社会的にどのように位置づけられ、人々の理解がどのように得られ、そこでどのようなことがどのように行われるかどうかだと思います。
今大切なことは、障害児・者の実態に即した日本流の体系的理念を確立することです。 そして安易な“収容施設”という非人間的な旧来のイメージは一掃し、“新たな施設観”を確立し、定着させることだと思います。
そのためには施設がこれまで果たしてきた役割や機能を改めて認識し直すとともに、障害児・者の“生涯”を見据えた福祉施策を担うことのできる人材を育成・確保することです。これは今の日本の重要課題だと思います。
これまでの施設における取り組みのすべてが否定されるようなものではなく、施設をよくないものとする見方は偏見や差別を助長するだけではないかと思います。障害者にかかわる施設整備はきわめて有効なものとして社会的に堂々と位置づけられてよいはずです。施設が地域社会の中にあって、そこが障害をもつ人の生活の拠点となるような社会的環境の整備の推進は日本の実情においては必要です。それは
“新たな施設観” となって障害をもつ人の生活ニーズに対応し、施設の機能や役割の活性化と充実を促し、障害者福祉の向上に寄与するものと確信します。
日本の障害児・者施設の原点
日本の障害児(者)施設の原点は、石井亮一が創設した「滝乃川学園」にあるといってよいと思います。その取り組みは、学校教育という公教育的立場のものとは対照的な社会福祉的立場に立ったものであり、それはまた社会防衛的な発想に基づく欧米の施設とも対照的な、社会の厳しい状況から障害児を守ろうという人道的発想に基づくものです。
その取り組みは、単に施設に隔離し、保護するというのではなく、生活能力を高めようとする教育的取り組みであったというところに大きな意味があるわけです。
ノーマライゼーションの理念は、施設の整備を推進する日本に混乱を招きましたが、その一方で施設の整備を進める上で反省すべき点について考える機会を得たことにもなります。その反省点を踏まえつつ日本の施設福祉の充実を図ることこそが実態に即していると考えます。混迷したときに、原点に立ち戻って考え直してみることの大切さを忘れてはならないと思います。
日本の教育や福祉は今、大きな変革期の中にあり、混迷した状況が見られます。日本の知的障害に関する教育や福祉の原点ともいえる滝乃川学園の創設者である石井亮一(1867~1937年)や、戦後では、近江学園の創設者である糸賀一雄(1914~1968年)や旭出学園の創設者である三木安正(1911~1984年)の思想や取り組みをあらためてたどってみることの意義は大きいと思います。そこには目指すべき考え方の拠りどころとなるものがあるはずです。
⇒ 日本の障害児(者)の教育・福祉
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教育を受ける権利の保障について
知的障害児者の教育と福祉
障害者の権利条約と「合理的配慮」について
国連障害者権利委員会の審査・勧告について≪審査、勧告をどう受け止めるか≫
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日本の障害児(者)の教育や福祉をめぐる問題、課題を考察し、今後を展望
田研出版 3190円 A5判 316頁
第1章 日本の障害児教育の始まりと福祉
義務教育の制度と障害児/学校教育と福祉施設/精神薄弱者福祉法(現:知的障害者福祉法)の制定/教育を受ける権利の保障
第2章 戦後の復興から社会福祉基礎構造改革へ
社会福祉法人制度と措置委託制度/社会の変化と社会福祉基礎構造改革/「措置」から「契約」への制度転換と問題点
/社会福祉法人制度改革の意義と課題
第3章 障害者自立支援法から障害者総合支援法へ
障害者自立支援法のねらい/障害者自立支援法をめぐる問題/自立支援法から総合支援法へ/障害者総合支援法施行3年後の見直し
第4章 教育の意義と福祉の意義
人間的成長発達の特質と教育・福祉/人間的進化と発達の個人差/教育と福祉の関係/「福祉」の意味と人権
第5章 展望所感
障害(者)観と用語の問題/新たな障害(者)観と国際生活機能分類の意義/障害児教育の義務制の意義と課題/障害者支援をめぐる問題
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