日本の障害児(者)の教育と福祉


作成 2012.7.1/改訂2017.7.26

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<日本の障害児(者)の教育や福祉の基盤が整うのは戦後です>

 戦後に制定された日本国憲法によって、基本的人権及び国民の生存権、国の保障義務、教育を受ける権利と受けさせる義務などが定められ、障害児の教育が義務制になった意義は大きいと思います。
 しかし、義務教育を修了すればそれでよいということではないわけです。義務教育終了後をどのように考えるかという問題課題があることは確かです。

 人の一生は障害の有無に関係なく、かけがえのないものであり、学齢期はとても大切な時期であることは今では誰もが認めることだと思いますが、その前後も言うまでもなく大切なわけです。
 学齢に達するまでの保育や幼児教育は、人間的成長発達を促す基礎となる部分であるという意味で大切に考えなければなりません。また人の一生を考えた場合、学齢期よりも学齢期以降の生活のほうがずっと長い。それだけに学齢期をどのように過ごすことができるかどうかということと、学校を卒業してからのその後をどのように暮らすか(暮らせるか)ということは人生においては大変重大なことです。そこに教育と福祉の連携の意義とその重要性があると思います。


<教育も福祉も「人としてよく生きるためのもの」です>

 教育も福祉も、要は「人としてよく生きるためのもの」であり、人の生き方や生きがいに関わるものであるという意味では別々のものではなく、一体的なものでなければならないはずです。
 教育や福祉の施策をどのように考えるかは、優れた文化社会においてはおろそかにしてはならない必須のことであり、日本が確かな文化国家、先進国家としてどのように存続していくかということにおいて、教育や福祉についての考え方がきわめて重要だということになります。

 今、日本の教育も福祉も過渡期にあり、文部科学省も厚生労働省も「教育と福祉の連携」を掲げています。また「共生社会の形成」「インクルーシブ教育システムの構築」が課題となっています。
 今日に至る知的障害児者の教育や福祉にかかわる問題や課題を概観すれば、それらは要するに、「障害」をどのように受け止め、知的障害児者の幸せを真に考えた支援施策をどのように講ずるかということだと思います。
 日本のこれからの障害児(者)の教育や福祉を考えるには、もう一度、原点に立ち返ってみることが大切だと思います。



日本の障害児(者)の教育と福祉の施策
日本の障害児(者)の施設について
施設化政策から脱施設化政策へ
日本の障害児(者)の教育と福祉の原点
日本の障害児(者)の教育と福祉の再考





日本の障害児(者)の教育と福祉の施策

 戦後日本の教育制度は、障害児に対する教育も義務制にしました。そして障害児を対象とする学校教育のことを「特殊教育諸学校」で行う「特殊教育」と称してきたわけですが、2007(平成19)年4月1日施行の「学校教育法等の一部を改正する法律」により、特殊教育諸学校は「特別支援学校」に、特殊教育は 「特別支援教育」 に改められて現在に至っています。

 戦後日本の福祉制度は、社会福祉事業法の制定により維持されてきました。 そして障害者の生活にかかわる福祉サービスはいわゆる措置制度による行政の措置として提供されてきましたが、社会福祉事業法は2000(平成12)年6月に「社会福祉法」に改正・改称され、それにより措置制度に替わって契約制度が導入されました。
 契約制度が導入されたことで、行政の措置として提供されてきた福祉サービスは、サービスを行う事業者と利用者との契約により提供される仕組みとなり、現在に至っています。

 法制度上は、障害があっても誰もが学校教育を受けられるようになり、福祉サービスは自ら選んでサービスを提供する事業者との契約により利用できるようになったわけです。しかし依然として障害児(者)の教育や福祉をめぐる問題、課題は変わってはいないように思います。

 障害児教育の義務制が実施され、そのための学校がつくられてきました。そしてその卒業後をなんとかしたいという親の願いにより施設がつくられてきました。さらに“親亡き後”のことを含めた老後への安心の道筋を確保したいという親の願いが施設へのニーズの高まりとなって施設の整備充実が図られてきたといえます。

 こうした教育・福祉の施策は、障害をもつ人を支援するというだけではなく、その親・兄弟姉妹等の家族を支援することでもあったわけです。障害児者の支援においては障害をもつ本人だけでなく、その家族等の思いを受け止めることも大切です。そこに古くて新しい課題があると思います。

 1960年代以降のノーマライゼーション理念の広がりに伴い、やがて北欧諸国やアメリカでは施設の縮小や解体へと進むことになりますが、日本の場合はそれとは逆に施設中心の施策が進められてきたことになります。しかしそれは日本の実情に応える施策だったわけで、日本には日本の実情を踏まえた日本流の取り組みがあってよいはずです。
 日本の、これからの障害児・者の教育や福祉を考えるには、もう一度、原点に立ち返ってみることが大切ではないかと思います。




日本の知的障害児(者)の施設について

 日本の知的障害のための入所施設の原点は、滝乃川学園(国立市谷保)の取り組みにあります。1891(明治24)年の濃尾地方大地震による被災女児を救済するために石井亮一によって設立された孤女学院がその始まりです。
 孤女学院は1897(明治30)年に「滝乃川学園」と改称し、現在に至っています。

 孤女学院に知的障害の女児がいたことから、石井亮一は二度にわたり渡米し、故セガンの未亡人からセガンの教育論等を学び、滝乃川学園の運営に尽くしました。それは第二次世界大戦以前における知的障害児(者)の教育・福祉の先駆けとなり、施設の創始者の多くがその指導を仰いできました。それが今日に受け継がれてきているわけです。
 石井亮一は、1934(昭和9)年に日本精神薄弱児愛護協会を結成し、初代会長に就任、 事業の発展に努めました。 それが現在の日本知的障害者福祉協会です。

 知的障害児のための施設の法体系が整うのは戦後であり、1948(昭和23)年に 「精神薄弱児施設」(精神薄弱は知的障害の旧呼称)について定めた児童福祉法が施行されてからのことです。1960(昭和35)年に「精神薄弱者援護施設」について規定する精神薄弱者福祉法(現:知的障害者福祉法)が施行されたことにより児童から成人までの知的障害を対象とする施設体系が一応は整うことになります。

 1963(昭和38)年、重症心身障害児施設 「第一びわこ学園(現:びわこ学園医療福祉センター草津=滋賀県草津市)」 開園。
 1965(昭和40)年、当時の厚生大臣の私的諮問機関「心身障害者の村(コロニー)懇談会」が意見書(コロニー構想)をまとめる。


コロニー構想とは、
  「 障害の程度が重く、 医療や介護を必要とし、 一般社会での生活には困難を抱えるが、職員やボランティアらとともに一定の区域内に居住し、治療や訓練を受けつつ、それなりの能力を発揮し、生産活動や日常生活を営む一つの共同体」 をいう。

 (国立のぞみの園10周年記念紀要 2014)


以後、大規模な総合施設(コロニー)が都道府県各地に設置されるようになり、コロニーブームとなる。
 1968(昭和43)年、愛知県心身障害者コロニー開所。
 1970(昭和45)年、大阪府立金剛コロニー開所。
 1971(昭和46)年、定員550人の国立コロニーのぞみの園(現:国立のぞみの園=群馬県高崎市)開所。

 こうしたなかで障害者やその家族らから、人里離れた施設で障害者が集団で生活するのは地域社会からの隔離ではないかという批判が出てきました。 しかし、そうした批判の一方で、施設へのニーズは高まり、施設は増え続けることとなります。

 国連は、1971年に知的障害者の権利宣言、1975年に障害者の権利宣言を採択し、その権利宣言の具現化を図り、障害者の社会参加や就労機会の保障などの実現を目的に、1981年を国際障害者年とすることを決議しました。
 国際障害者年が掲げたスローガンが完全参加と平等 (Full Participation and Equality)です。

 1981(昭和56)年の国際障害者年と、その前年に世界保健機関(WHO)が、障害に関する世界共通の理解を促し、科学的アプローチを可能にすることを目的に作成した国際障害分類試案(ICIDH)を発表したことが契機となって、障害(者)観は大きく変化することになり、障害者も可能な限り通常の人々と同じ生活が送れるようにすべきだというノーマライゼーションの理念が広まります。

 さらに国連は、国際障害者年の掲げた目的の計画的な達成のために、1982年に障害者に関する世界行動計画を決議し、1983(昭和58)年~1992(平成4)年の10年間を国連・障害者の十年と宣言し、各国が計画的に課題に取り組むこととなりました。
 そして人の生活の質や生活のしづらさなどの問題を考えたとき、それは単に個人の心身上の問題であるというだけでなく、その生活する社会環境との関連で考えるべき問題でもあるという理解認識がなされるようになります。

 こうした流れの中で、日本においても施設中心の施策から地域生活への移行を促す施策への方向転換が図られることとなります。
 1993(平成 5)年、厚生省児童家庭局長通知 「精神薄弱者援護施設等入所者の地域生活への移行の促進について」が発出されました。

 国際障害分類試案/国際障害者年/国際生活機能分類

《参考》 厚生省児童家庭局長通知 「精神薄弱者援護施設等入所者の地域生活への移行の促進について」(平成5年4月1日)
 
厚生省「『知的障害者援護施設等入所者の地域生活への移行の促進について』の一部改正について」(平成11年4月1日・平成11年7月16日)


◆2002(平成14)年、障害者基本計画で入所施設について「地域の実情を踏まえ、真に必要なものに限定」の方針が示される。また当時の宮城県の知事が 知的障害者施設の解体を宣言。

《参考》 障害者基本計画 平成14年12月 (内閣府 共生社会政策統括官障害者施策)

 2003(平成15)年、福祉サービスの利用の方式が「措置制度」から「契約制度」へと転換したことで、 施設の利用等の障害福祉サービスを利用者が自ら選択できるようになる。
 厚生労働省が国立のぞみの園の入所者の3~4割を07年度までに地域移行する目標を設定。
 2004(平成16)年、長野県の500人規模の県立コロニー「西駒郷」が、5年間で250人程度の地域生活移行の実現をめざすことを公表。

 2006(平成18)年、障害者自立支援法施行。

 障害(者)観も変化し、 障害者福祉の施策も施設中心から地域生活中心の施策への移行が図られてきたわけですが、 障害(者)施設はあってはならないものなのでしょうか。
 本当に「施設など必要ない」ということであれば、それはそれでよいわけですが、もし必要であるとすれば、施設も大切な社会資源であり、価値あるものとしてむしろ積極的に堂々と考えてもよいのではないでしょうか。
 施設に対する見方や考え方こそが障害者に対する偏見差別を助長しているというようなことはないのでしょうか。

 施設をめぐる考え方はいろいろあってよいと思いますが、それは単に施設を否定するのではなく、施設の在り方とか施設を取り巻く社会環境の側の問題、人々の障害(者)に対する意識の問題として考えるべきものだと思います。それは、いわゆる「合理的配慮」の問題や「共生社会の実現」に関する問題にも通じることだと思います。

 平成28年7月、神奈川県相模原市の障害者施設できわめて衝撃的な殺傷事件が起きました。そのため神奈川県は、その凄惨な事件を払しょくし、施設の再生を図るために全面的な建て替えを表明したのですが、それに反対する意見が出されたことから建て替え計画は延期となりました。
 しかしこの凄惨な殺傷事件は、障害者施設の建て替えの単純な是非ではなく、障害者施策をめぐる現状の諸問題について、改めてしかも早急に考え直してみるべき大事なことを投げかけているというように思います。

厚生労働省:「(独)国立のぞみの園の在り方検討会」を開催し、平成29年5月より検討を行ってきたところでありますが、今般、別添の通り報告書をとりまとめました。
  
 (独)国立のぞみの園に関する調査結果

  
(独)国立のぞみの園のあり方検討会報告書     


施設化政策から脱施設化政策へ

 1960年代以降のノーマライゼーション理念の広がりに伴い、北欧諸国やアメリカでは施設の縮小や解体へと進みますが、日本の場合は、それとは逆に施設中心の施策が進められ、1970年代はその勢いが増すことになります。

 そうした中で1981(昭和56)年の国際障害者年を契機に、いわゆる「共に学ぶ」「共に生きる」というノーマライゼーションの理念は世界的規模で障害(者)観に大きな影響を与え、日本の教育や福祉に関しても影響を与えました。そして今、脱施設への方向が示されています。
 しかし社会資源としての「施設」の必要性とその意義を忘れてはなりません。 脱施設に向けた考え方自体はよいと思いますが、その考え方の背景となった事情が、歴史的にみれば、北欧諸国らの場合と日本の場合ではちょっと違うという点にも目を向けて考えてみるべきではないかと思います。

 ノーマライゼーションの理念を生むことになった施設施策のそもそもの考え方は、特別なケアを必要とする知的障害児(者)を施設の中で保護・指導するものではあっても、それはいわば知的障害者を排斥する社会防衛的な発想による政策的なものであったわけです。さらにそれは、保護・指導・治療・訓練等のあらゆる取り組みを施設内だけで完結しようとするものでした。そのために隔離隔絶による人間性軽視に陥ったわけで、その反省がやがて脱施設化政策へと転ずることになったわけです。

 これとは対照的に、日本の場合の施設の取り組みは、きわめて人道的な見地に立ったものであり、社会防衛的な隔離隔絶的なものというよりも、社会の圧迫から保護するとともに、生活能力を高めるための教育的な取り組みを施すものでした。
 その原点といえるのが明治時代に石井亮一により設立された滝乃川学園(現所在地:東京都国立市谷保)です。 それはその後の施設づくりにも影響を与え、受け継がれ、現在に至っているといってよいと思います。

 施設そのものを否定するのではなく、その施設がなぜ必要なのか、そこで何がどのように行われるのか、その施設が地域社会にどのように位置づけられるのかを問題にすることこそが大切だと思います。

 施設が必要なものであれば、それは重要な社会資源の一つとしてその真価が問われて当然です。施設が知的障害者にとって、その権利を擁護し、生活や活動の質的充実を図る拠点であり、しかも地域福祉啓発の拠点として機能するものであるならば、そうした施設の在り方は現在の日本の変革期においては特に重要だと考えます。

 「施設から地域へ」はよいが、「地域から施設へ」は悪いとして、施設を否定するような考え方であるとすれば、それこそが偏見や差別ではないでしょうか。
 「施設から地域へ」であるとともに、「地域から施設へ」であり、「施設も地域も、地域も施設も」という考え方こそが大切だと思います。

 
  
障害者施設「津久井やまゆり園」の再建をめぐる問題




日本の障害児(者)の教育と福祉の原点

 日本の教育や福祉は今、大きな変革期の中にあり、混迷した状況もみられます。
 日本の知的障害に関する教育や福祉の原点ともいえる滝乃川学園の創設者である石井亮一(1867~1937年)、戦後では、近江学園の創設者である糸賀一雄(1914~1968年)や旭出学園の創設者である三木安正(1911~1984年)の思想や取り組みを改めてたどってみることの意義は大きいと思います。そこには目指すべき考え方の拠りどころとなるものがあると確信します。

◇石井亮一(1867~1937)
社会事業家であり、日本の障害児(者)教育・福祉の創始者。
 二度にわたり渡米し、故セガンの未亡人からセガンの教育論等を学び、滝乃川学園(東京都国立市)を創設し、第二次世界大戦以前における知的障害児(者)の教育・福祉の先駆けとなり、それが引き継がれて現在に至る。
 なお亮一の夫人筆子も滝乃川学園の運営に尽力したことが、最近になって映画化されたことで知られるようになった。筆子は華族の令嬢で、日本初の海外留学生で、津田梅子らとともに日本の近代的女子教育の先駆者でもある。結婚して三女を儲けるが、次女を病弱のため生後間もなく亡くし、三女と夫も病気で亡くし、長女が知的障害であったことから亮一と出会い再婚、滝乃川学園の経営にかかわることになったということである。

◇糸賀一雄 (1914~1968)
戦後日本の障害児教育・福祉の先駆者として業績を残す。
 1946(昭和21)年、戦後の混乱期の中で、知的障害児等の施設「近江学園」(滋賀県)を創設。近江学園は、1948(昭和23)年の児童福祉法の施行に伴い県立の児童福祉施設となり現在に至る。
 重度の障害児であってもその成長発達は保障されなければならないとして重症心身障害児・者を単に保護の対象としてではなく、発達の主体としてとらえることが大切であるという思いを「この子らを世の光に」ということばにこめて、重症心身障害児の療育に尽力した。その精神は現在に受け継がれている。
 著書に「福祉の思想」(NHKブックス67)

◇三木安正(1911~1984)
1946(昭和21)年に文部省教育研究所所員となり、戦後の教育改革における特殊教育部門の基礎資料の作成にあたる。
 1947(昭和22)年に学校教育法が施行され、いわゆる「六・三制」の教育の義務制が実施されることに伴い中学における知的障害児の教育の必要性に着目し、教育研究所内に実験学級「大崎中学分教場」を設置し、数人の研究所員とともに授業を担当。この分教場はのちに、東京都立青鳥養護学校(現在の青鳥特別支援学校)に発展。
 間もなく文部省(現在の文部科学省)に転任し、戦後の特殊学級の復活・設置促進のため全国をかけめぐり、全日本特殊教育研究連盟(現在の全日本特別支援教育研究連盟)を設置し、主導的役割を果たした。
 その間、「養護学校学習指導要領」の編成に尽力。「手をつなぐ親の会」の結成にも尽力。その一方において1950(昭和25)年に「旭出学園」を設立。旭出学園は、1960(昭和35)年に学校法人旭出学園(東京都練馬区)、1972(昭和47)年に社会福祉法人富士旭出学園(静岡県富士宮市)、1974(昭和49)年に社会福祉法人大泉旭出学園(東京都練馬区)の三つの法人組織に発展し、知的障害児・者の教育と福祉の事業を展開し現在に至っている。
 2000(平成12)年に業績に関連する著書や資料等を集めた「三木安正記念館」が開設された。
※三木安正記念館:東京都練馬区東大泉7-12-16 旭出学園内 ℡ 03-3922-4134

《参考》 藤島 岳 他 「人物でつづる障害者教育史 日本編」 日本文化科学社(1988)





障害児(者)の教育と福祉の再考

 戦後日本の新しい憲法に国民の基本的権利の一つとして「教育を受ける権利及び教育を受けさせる義務」が定められ、この憲法の理念に基づく教育基本法及び学校教育法により、小学校の6年と中学校の3年を義務教育とするいわゆる「六三制(ろくさんせい)」の学校教育制度が発足し、養護学校(現在の特別支援学校)の就学義務も規定されました。

 しかし知的障害、肢体不自由、病弱(身体虚弱を含む)を対象とする養護学校の義務制の実施は、実績が全くない新たな学校であったことと、敗戦の混乱と財政的にも窮乏した中で、一般の小学校と中学校の義務教育を強行しなければならないという事情もあって、すぐには実施されませんでした。 実際に養護学校の義務制が実施されたのは、戦後の新しい学校制度が発足してから32年目の1979(昭和54)年4月からです。

 一方、1947(昭和22)年12月制定の児童福祉法により、「精神薄弱児施設」(精神薄弱は知的障害の旧称)が規定され、その後、知的障害の子どもをもつ親の会の運動もあって、 1953年(昭和28)年11月9日に 「精神薄弱児対策基本要綱」が各省次官会議において正式決定されました。この要綱の策定により、はじめて知的障害児のための総合的な対策が立てられることになり、各省は相互に連携をとりながら要綱に盛り込まれた諸施策の具体化と実現に努力することを申し合わせたことが知的障害児(者)に対する教育・福祉の取り組みを本格化させる契機となりました。

 こうした中で、養護学校の義務制が実施されるまでの間は、精神薄弱児施設が教育の場としての役割を果たし、養護学校の義務制が実施されてからは、その卒業生の多くが進路先として福祉施設を利用するようになりました。それは養護学校が特別支援学校となった現在も変わってはいません。このことは、これからの障害児(者)の教育・福祉を考えるうえで直視すべき重要な点です。

 また地域生活支援、自立支援、就労支援ということが強調されていますが、「地域生活」「自立」「就労」の意味を具体的にどのように理解すればよいのかがもっと厳密に問われてよいはずであるにもかかわらず、そうしたことが何となくなおざりにされたままであることについても改めて考え直してみることが今後に向けて大切だと考えます。

 ノーマライゼーションの理念が施設中心の障害者施策の反省を促してきた意義は大きく、福祉先進国から学ぶにしても、それが単なる模倣ではないのであれば、日本流の確たる障害者福祉の理念とそれに基づく施策があってよいはずです。 しかし現状は、現実を直視した施策というよりも、未消化のままの理念や目先のつじつま合わせに都合のよい法制度が先行し、実態にそぐわないという問題が噴出しました。

 問題が放置されたままになるとは思いませんが、少しでもより良い方向を目指すには、やはり当事者及びその関係者、そして実践現場が発するパワーを必要とします。

 障害といってもいろいろです。地域生活や自立生活を支援するということにおいて、その前提として「障害」をどのように理解し、受容するかということとともに、「地域生活」「自立生活」を具体的にどのように考えるかということがきわめて重要だと思います。
 障害者支援がすべて共通認識に基づくものであり、その支援により共通レベルの生活が維持できるようになればよいのですが、それがなかなか難しいという現状があります。

 一般的にはごく当たり前とされるものごとの価値観や評価基準、人間関係に沿った考え方が通用しにくい問題を抱えた状態が障害を有するということだと思います。
 しかもその問題を抱えた状態は多様であり、そうした障害の特質そのものが一般の人々には理解されにくい。 そのためによく理解されないままに、一般的な「地域社会」や「就労」「自立」の考え方に当てはめようとするところに無理が生じます。

 支援により無理が解消されるならば障害はないことになりますが、なかなかそうはいかない現実があります。それを仕方がないとしてあきらめたり、放置したりするのではないところに障害者支援の意味があり、そこに具体的な支援施策の課題があると思います。

 支援により、自らの意思で住まいの場を選択し、決定し、施設生活から地域生活への移行が可能であるならばそれでよいと思います。しかし障害の内容やその程度状態によってはどこまで、どの程度の支援を要するかということと、その支援によって実際的にどの程度、どのような自立生活が可能かという問題があります。

 その問題は障害当事者だけの問題ではなく、支援の内容や方法だけの問題でもなく、地域社会そのものの問題であるという理解認識が大切だと思います。要するに障害者福祉の問題は社会福祉の問題であり、社会福祉の問題は社会保障の問題だと思います。

 障害者福祉と社会福祉と社会保障について

 文部科学省:日本の障害者施策の経緯


 厚生労働省:平成26年7月16日 障害児支援の在り方に関する検討会
   今後の障害児支援の在り方について(報告書) ~「発達支援」が必要な子どもの支援はどうあるべきか~ (PDF)


今後の障害児支援の在り方について(報告書のポイント)

◆バリアフリー教育充実「共生社会」実現目指す 東京五輪向け推進 2016(平成28)年7月15日 朝日新聞

 政府は2020年東京五輪・パラリンピックに向け、障害のある人もない人も支え合って生きる「共生社会」の実現を目指す計画をまとめた。計画は、東京五輪を「成熟社会における先進的な取り組みを世界に示す契機で、我が国が共生社会に向けた大きな一歩を踏み出すきっかけにしたい」と位置づけた。


 内閣府:障害者基本計画(第4次)平成30年3月<第4次障害者基本計画 概要>

 内閣府:共生社会政策
 国民一人一人が豊かな人間性を育み生きる力を身に付けていくとともに、国民皆で子供や若者を育成・支援し、年齢や障害の有無等にかかわりなく安全に安心して暮らせる「共生社会」を実現することが必要です。
 このため、内閣府政策統括官(共生社会政策担当)においては、社会や国民生活に関わる様々な課題について、目指すべきビジョン、目標、施策の方向性を、政府の基本方針(大綱や計画など)として定め、これを政府一体の取組として強力に推進しています。


 特殊教育から特別支援教育へ 障害児教育の義務制の意義と課題

 権利としての教育と福祉

 社会福祉法人制度と障害者福祉の施策

 発達障障害者支援法と障害者自立支援法を考える

 発達障害をどのように理解するか

 障害(者)観の変遷と古くて新しい課題

 相模原市障害者施設の殺傷事件を考える

 優生思想と強制不妊手術

 日本の障害者施策と「障害者権利条約」の批准について

 教育の意義と福祉の意義

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日本の障害児(者)の教育や福祉をめぐる問題、課題を考察し、今後を展望
田研出版 3190円  A5判 316頁


第1章 日本の障害児教育の始まりと福祉
義務教育の制度と障害児/学校教育と福祉施設/精神薄弱者福祉法(現:知的障害者福祉法)の制定/教育を受ける権利の保障
第2章 戦後の復興から社会福祉基礎構造改革へ
社会福祉法人制度と措置委託制度/社会の変化と社会福祉基礎構造改革/「措置」から「契約」への制度転換と問題点
/社会福祉法人制度改革の意義と課題

第3章 障害者自立支援法から障害者総合支援法へ

障害者自立支援法のねらい/障害者自立支援法をめぐる問題/自立支援法から総合支援法へ/障害者総合支援法施行3年後の見直し 
第4章 教育の意義と福祉の意義
人間的成長発達の特質と教育・福祉/人間的進化と発達の個人差/教育と福祉の関係/「福祉」の意味と人権

第5章 展望所感
 障害(者)観と用語の問題/新たな障害(者)観と国際生活機能分類の意義/障害児教育の義務制の意義と課題
/障害者支援をめぐる問題






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